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昭和22年、敗戦の混乱を抜け、青少年の若いエレルギーをより正しく発散させる一方策として、バレーボール部が発足した。

草創期は昭和22年より昭和25年までで、練習日の服装は夏になるとまことに軽装、「ハダカにハダシ」でユニホームとズック靴は、どんな季節でも試合以外は身につけられない程の貴重品であった。

発展期は昭和26年より昭和29年と思われる。この時期は上位で戦える力を持っていながら、常に最強チームとの対戦が多く、実力を十二分二出すまでにいたらなかったと言えよう。

バレーボール部の黄金時代として県下にその名を馳せたのは昭和30年から昭和34年の5年間であった。

昭和37年9月から九人制より国際式バレーボール六人制に切換えられ、これを契期として再度全国大会出場をねらって再出発がなされた。

昭和43年六人制を採用した当時の選手菅野隆二氏(東北学院大、高16回卒)をコーチに迎え、部員は、猛練習にはげんだ。

昭和46年秋の新人大会でその成果を見せ予選を勝ち抜き、県大会では上位4チームの仲間入りをし、全国大会予選に出場したが、古川勢の前に敗戦を喫し、宿願の夢を達成することはできなかった。

昭和27年総合体育大会では上位4チームに顔を出し、打たれても打たれてもボールに食いついて行くファイトはすばらしいものである。

昭和48年は、両エースが180cmを超えるという近年例のないチームとなりいままでの「レシーブの仙商」から「攻撃の仙商」となった。総合体育大会では予選を勝ち抜き決勝リーグまで行ったが、電子工業に敗れ第3位で、宿願の夢を果たすことができなかった。

昭和49年は、柴小屋を中心に、新人戦でベスト4に入り50年春の高校バレーでは、テレビに映るなど大活躍したが、残念ながら古川工業に惜敗し、全国大会への出場は失った。

昭和52年超エース奥野が入り新人大会では今まで勝てなかった古川工業を破り、優勝を目標に戦ったが準決勝で、電子工業に敗れ3位という成績であった。また、春の高校バレーでは、リーグ戦で東北高校と優勝を争ったが、惜しくも破れ2位という成績に終わった。

昭和57年総合体育大会では第3シードに選ばれ、準決勝では、ここ数年勝ったことのない古川工業を破り念願の決勝進出と東北大会出場の切符を手に入れることが出来た。決勝戦では健闘したが敗れ、全国大会出場は出来なかった。東北大会では、1回戦で敗れた。

昭和58年アジアバレーボール選手権があり仙商にとっては、2つのニュースがあった。OBの奥野浩昭氏(東海大・サントリー)が日本優勝のきっかけを作る柱となる。特に彼のバックアタックは日本一の破壊力があり、ロスアンゼルスオリンピックえは、日本代表選手として出場し大活躍をした。

又東海林敏幸氏は青年海外協力隊の一員となりネパールにバレーの監督として派遣され、ネパールチームが香港を相手に、ネパール史上初めての勝利をもたらした・
                           (以上仙商七十七年誌、仙商九十年誌より抜粋)
50周年記念誌